ジャマイカの歴史を解説スレ | なんJ 2ch 5ch まとめ

広告



ジャマイカの歴史を解説スレ

ウサイン・ボルトの母国として有名なジャマイカの歴史について解説していきます

暴動は鎮圧され、ボーグルを含め加わった黒人たちは拘束された。

その後600人以上の黒人が鞭打ちの刑となり、ボーグルは裁判の翌日に処刑された。

また、軍が暴動に関係のない民間の黒人を無差別に虐●し、数千人の家屋が正当な理由なしに燃やされたことも判明した。

西暦800年ごろアラワク族が島に定住し、焼畑農業などをして暮らしていた。最盛期の人口は約6万人ほどだった。

15世紀後半、コロンブスが島を発見した。16世紀には島は動物の皮供給地として注目され、スペインによる本格的な植民が始まった。

アラワク族は奴隷にされ、過酷な労働と持ち運ばれた病気によりほとんどが死亡した。

17世紀、イギリスが西インド諸島へ本格的な侵攻を開始した。

イスパニョーラ島への侵攻に失敗したイギリスはジャマイカ島に狙いを定めた。

島にイギリス軍7000名が侵攻し、少数のスペイン軍を圧倒した。

先ず何処だよそこ

>>
カリブ海にある小さい島国です

1692年、地震によりポートロイヤルが破壊されたため、新たにスパニッシュタウンが首都となった。

しかしこの新首都もハリケーンによる被害が激しく、経済の中心は18世紀以降、徐々にキングストンに移っていった。

キングストンは現在のジャマイカの首都となっている。

ジャマイカ知らんのは流石に無知すぎる

イギリスは島の白人化を進めるためにアイルランド人労働者を導入した。

しかし、暑さに弱い白人は過酷な環境に耐えきれず、18世紀以降は黒人奴隷の導入が増加した。

>>
白人ざっこw

>>
わりと打たれ弱いです

島では大量の労働力が必要なサトウキビの栽培が始まり、黒人奴隷の数は増え続けた。

一方で労働環境は劣悪であったため、山岳地帯に逃亡する奴隷が後を絶えなかった。

逃亡奴隷はマルーンと呼ばれた。

マルーン5?

逃亡奴隷5人が集まってできたのがマルーン5?

マルーンたちは奴隷制に抵抗するため武装し、度々紛争が発生した。

イギリスは鎮圧のために本格的に軍を派遣し、第一次マルーン戦争が勃発した。

戦争はじマルーン?

マルーンは山岳地帯においてゲリラ戦を展開し、戦争は長期戦となった。

最終的に両者が疲弊し和平が成立した。

和平の内容はマルーンに対し土地の領有を認めるものだったが、その見返りに傭兵として逃亡奴隷を捕獲することも定められた。

この要項はムラートの間でも不満が残った。

1760年、西アフリカの元王族であったタッキーによる反乱が勃発した。

タッキーはマルーン軍によって●害されたものの、反乱は収まらず島全土に広がった。

リーダーを欠いた反乱軍は最終的に鎮圧されたものの、残党は10年にわたりゲリラ戦を展開した。

先生!ムラートってなんですか?

>>
逃亡した黒人奴隷のことです

>>
あ!すみません間違えました

ムラートは混血でしょ

ムラートは黒人と白人の混血です
逃亡奴隷はマルーンです

さらなる反乱を防ぐためイギリスは西アフリカの宗教的な慣習を禁止した。

1795年、家畜を盗んだムラートの少年が鞭打たれ、その処罰に抗議したムラート代表が拘束された。

これをきっかけに、第一次マルーン戦争の和平内容に不満を持っていたムラートの怒りが爆発し、第二次マルーン戦争が勃発した。

てかイギリス領になっても人種名はスペイン語風なんやな

英軍は数の上では圧倒していたもののゲリラ戦に長けていたマルーンに苦戦した。

しかし物資不足になったマルーンは結局降伏した。

1831年、パプテスト教会(イギリス国教会の一派)の説教師、サミュエル・シャープが黒人奴隷の権利と賃金の改善を求めてストライキを決行した。

ストライキは島全土での反乱につながり、奴隷約6万人を巻き込む事態となった。

イギリスは素早く軍隊を動員し、この反乱を短期間で鎮圧することに成功した。

ナイスサミュエル

しかし、反乱の指導的立場が教会であったことはイギリスに衝撃を与えた。

また、度重なる反乱による経済的損失は無視できないレベルとなり、イギリスはジャマイカ島の実態調査を本格的に進めた。

あれ島国やったんか

調査によって奴隷制存続による経済的損失は明確となり、奴隷制廃止運動は大きく前進した。

1834年に奴隷制は廃止され有色人種の政治参画も認められたが、貧民層である黒人は巨額の投票税を払えず参政権を得られなかった。

白人に比べ30倍以上の人口を占める黒人に参政権がなかったことは、黒人に大きな不満を与えた。

1863年から続いた長い日照りは農業に打撃を与え、悪化した経済により治安が悪化した。

そのため、白人は黒人の暴動を恐れて自警団を編成した。

>>
なんやアメリカと一緒やんけ

>>
たしかに、この辺りのゴタゴタは似てる部分が多いかもしれません

1865年、長年放棄されていた農場に侵入した黒人が不法侵入の罪で有罪となり収容されると、ジャマイカ全土で抗議の声が上がった。

抗議する黒人達が拘束されると抗議の声はさらに強まった。

パプテスト教会の黒人助祭であるポール・ボーグルが民衆と共にモラント市の裁判所へ行進すると、現地の自警団が抗議する黒人たちに向け発砲した。

これをきっかけに抗議は暴動へと発展した。

出典はWikipedia?

>>
大学図書館のカリブ史本を参考にしました

黒人たちは白人自警団を排除し、各地の農場主を●害した。

ジャマイカ総督エドワード・エアはボーグルの逮捕と暴動の鎮圧のためにマルーン傭兵と政府軍を動員した。

絶滅しかけのアラワク族「何やってんだこいつら…」

エアに批判的だった白人実業家ウィリアム・ゴードンも混乱の最中処刑された。

この一連の事件はモラント湾の暴動と呼ばれ、虐●などの過度な対応やゴードンの処刑について本国のイギリスでも議論を呼んだ。

その後治安維持のため、ジャマイカ島は本国の直轄植民地となった。

直轄化された後、奴隷解放による労働者不足や砂糖の価値低下により砂糖産業は衰退していった。

これに伴い放棄された砂糖プランテーションの土地を黒人たちが分け合い、小規模農家が増加した。

また、不足した労働力を補うためにインドや中国から契約労働者が導入された。

さらに直轄植民地となったため、インフラへの投資や農業開発が行われた。

1868年に大規模な灌漑開発が始まり、1895年さらなる農業発展のためにジャマイカ農業協会が設立された。

砂糖に代わる農作物としてバナナが注目され、主要な輸出品となった。

一連の農業改革によって経済は再生されたが、島の直轄化により住民の参政権は奪われた。

同時期に正式にキングストンが首都となったが、1907年の大地震により都市の大部分が破壊された。

1914年、黒人実業家のマーカス・ガーベイが世界黒人開発協会(UNIA)を設立する。UNIAは反植民地主義を掲げ多くの支持を得た。

また、マーカスは黒人のアフリカ回帰運動を促進した。

アフリカ回帰運動は黒人系アメリカ人にも支持されたが、

一方でアメリカは白人の国と言及したことは一部の黒人知識層から非難されていた。

1930年代には同じくアフリカ回帰を目指したラスタファリ運動が始まったが、宗教色の強いこの思想運動にマーカスは同調しなかった。

アフリカ回帰は達成できなかったものの、現在でもジャマイカでは英雄視されており、20ジャマイカドルの肖像画になっている。

1929年に世界恐慌が発生すると、農業の輸出に依存していたジャマイカ経済は大打撃を受けた。

アメリカから送還された労働者たちは様々な思想や知識を持ち込んだため、社会運動が活発化した。

アレクサンダー・バスタマンテは社会運動の過激派リーダーたちを支援し、ジャマイカ産業労働組合を設立した。

一方ノーマン・マンリーは大衆の意思をいかに尊重して政治を行うかに関心を持ち、1938年に人民国家党(PNP)を結党した。

バスタマンテも1943年にジャマイカ労働党(JLP)を結党した。

二人は結託してイギリスに対し普通選挙を要求した。

選挙は1944年に実現し、ジャマイカ労働党が僅差で勝利した。

左派の人民国家党と右派のジャマイカ労働党は現在まで続く二大政党となった。

冷戦が始まるとジャマイカでもイデオロギー対立が始まった。

ジャマイカ労働党は保守派の教会や不動産所有者の支持を集めた。

人民国家党も左翼4人を党から追放して共産主義的なイメージを和らげた。

その結果人民国家党は穏健左派寄りの政策を取るようになり、資源の公的管理や公正な所得分配などを訴えるにとどまった。

そして55年の選挙では人民国家党が勝利した。

1956年にイギリス主導でカリブ海の諸島を統合した西インド諸島連邦が建設された。

人民国家党がこれを支持し、59年にはマンリーが首相となった。

しかし、連邦は政治的な統合に失敗した。ジャマイカ労働党は連邦からの脱退を訴え国民投票が行われた。

国民投票ではジャマイカ労働党が優勢となり、61年に連邦から脱退した。翌年の62年、ジャマイカは独立を達成しバスタマンテが初代首相に就任した。

この独立はカリブ海の英領植民地で最も早いものだった。また、独立後はイギリス連邦に加盟した。

ここから独立後のジャマイカの歴史です

50年代からボーキサイトの発掘が始まり、独立後の60年代でさらに資源開発が進んだ。

その結果農業への依存度が低下した。

また、ボーキサイトに関連した様々な企業が生まれ、経済が多角化した。

一方でジャマイカ労働党は大麻の使用など、反社会的側面のあったラスタファリ運動支持者(アフリカ回帰運動支持者)を弾圧した。

1963年、コーラルガーデンズで約150人のラスタファリ運動支持者が警察に虐●される事件が発生した。2017年には政府がこの事件について謝罪している。

このような事件によりジャマイカ労働党の人気は低下し、72年の選挙では国家人民党が勝利した。

そしてノーマン・マンリーの息子であるマイケル・マンリーが首相となった。彼は急進的に様々な社会改革を目指した。

最低賃金の設定や住宅建設、土地改革などを実行し、74年に行った識字率改善計画では10万人以上の成人に教育を実施した。

この計画と同時に、貧民層の子供のために教育の無償化も行った。また、年金の増加や地方の税制改革、農村部の医療改革なども行った。

経済面では鉱業関連企業の国有化などを進め、外交面ではキューバとの関係を強化した。

彼の行った一連の改革はジャマイカ国民にとって非常に人気あるものだったが、左派寄りの姿勢をとったためアメリカからの内政干渉を受けた。

アメリカの支援を受けた右派による暴力によって治安は悪化し、キューバの支援を受けた政府軍との内戦状態となった。

これらの妨害によってマンリーの改革は満足に進まず、80年の選挙ではジャマイカ労働党が勝利し、新米のシエガ政権が誕生した。

シエガ政権は81年にキューバと断交し、83年にはアメリカのグレナダ侵攻を支持してジャマイカ軍を派遣した。

経済面ではアメリカからの援助を受け取り、さらに産業の民営化を進めた。

しかし、アメリカと約束したボーキサイトの関税撤廃を実現できず関係が悪化し、援助が減少すると経済が悪化した。

88年には史上最大規模のハリケーンギルバートによりバナナ農場などが致命的打撃を受けた。

政府が災害の復興資金を横領していた事が判明するとジャマイカ全土でスキャンダルとなり、ジャマイカ労働党の人気は低迷した。

その結果89年の選挙は国家人民党が勝利し、マンリーが再選した。

二期目となったマンリーは一期目とは違い、アメリカと協調し産業の自由化を進めた。

一方で自由化の悪影響を減らすために、貧困層向けの食糧支援や雇用創生を実施した。

また、一期目よりもより限定的であるものの土地改革を実行した。

改革は冷戦が終了していたため内政干渉を受けず、成功した。

マイケル有能すぎやろ

92年にマンリーは健康上の理由で引退したため、後続のパターソンが首相となった。

彼はインフラと金融セクターへの大規模な投資を実施し、財政を立て直した。

その結果18年に及ぶ国際通貨基金の借入が終了し、財政面での自由度を高めた。これら経済的な成功により93年、97年の選挙で圧勝した。

その後も人民国家党による長期政権が存続したが、2011年にはジャマイカ労働党が選挙で勝利した。

現在でも平和的な民主主義が存続している。

一方で同時多発テロ以降の観光客減少はジャマイカ経済に打撃を与えた。

農作物とボーキサイトに頼った産業構造も課題となっている。

また、アメリカへの麻薬密輸の中継地点となっており治安の悪化が深刻である。

2010年にはドラッグカルテルとジャマイカ政府との間で大規模な衝突が発生した。

知ってるジャマイカ人

ボルト
パウエル
ブレイク

終了

>>
陸上ほんと強いですよね

>>
ボブ・マーリー「」

歴史解説は以上です
暇な時にでも見返してもらえると嬉しいです

個人的には、安定した政治を続けているジャマイカは今後も成長を続けると思います

経済の多角化はきびc

おもしろい
ありがとうやで

良スレ
おもろかった

コメント

タイトルとURLをコピーしました